結局いろんなことが半端なまま、年が暮れていきます。こういうのを「例年どおり」とも言います。
再開のリハビリに、仕事や資料(Web上にあるPDFなど)以外で読んだ本でも書くかと思ったら・・・忘れてる。見事に忘れてるわ。恥ずかしい。何のために読んだんだろう。
うちのだんさんが忘れっぽい人で、よく「いいなー、毎日が新鮮でー」なんて言って笑うんですが、これじゃ笑えませんね。
そうです。たいていの場合、人のことは笑えない。
さて覚えてる分の書名だけでも。まだらに読んでまだ読了してないのも含む。 *リンク先はAmazonです。
『地形工学入門』(今村遼平著/鹿島出版会)
『終わらない河口堰問題』(伊東祐朔著/築地書館)
『四大公害病』(政野淳子著/中公新書)
『黄泉の犬』(藤原新也著/文藝春秋)
『地図はどのようにして作られるのか』(山岡光治著/ベレ出版)
このうち『黄泉の犬』を読んだのは、今年、水俣条約の外交会議がほかならぬ水俣で行われた、というニュースに触れたのが直接のきっかけです。いろいろと調べているうちに、オウム真理教から公害や高度成長に思いをはせた人が自分のほかにもいたと、最近知ったわけです。
1995年5月、ノートにこんなことを書いてました。
オウムの教祖がつかまってから、いろんな人がいろんな分析や見解を言っている。社会構造がどうとか、集団の特性がどうとか。いつかきっと頭のいい人が言ってくれるだろうけれども、やはり歴史を考えないと。現象、現状の整理だけでは、決してわけはわかるまい。
どうしても高度成長が気になる。はやく伸びすぎた背丈のぶん、間のびしてしまった背骨のように、私たちには何かが足りない。あるいは、つくることふやすことに熱中する傍らで、こわれて消えたものが、あまりに小さく見積もられすぎている気がする。工業化の過程で自然が破壊された、などという、決まり文句のかげに、もっと大きな闇がある。
高度成長期、貿易立国という国是にのっとってなされたことのすべては、この国をまるごと工場にすることだった。そのために道ができ、水は「用水」となり、制御のための機構は都会に集中した。(中略)いわば工場の中で、駆除しきれない虫かなにかのように、生きてきた。オウムは、その根において、救いがたいほど日本的なやり口で、高度成長をなぞったのだ。
成長の夢を捨てきれない現代日本人が、洗脳された人々を笑えるか。
「この世に進歩などというものはない。あるのは変化だけ」って言ったのは、三島由紀夫? 子どもの頃どこかで読んで、ああそうだねと腑に落ちた覚えがあります。
人は「進歩」「成長」みたいな幻想と、その幻想の中にいる高揚感が好きみたいです。高度成長期には、そんな高揚感の中にいた人、いたいと願う人が、多かったことでしょう。ぼんやり思うに、それはオウム真理教の夢見た「解脱」によく似てたんじゃないでしょうか。
すべてを得て、欲望から解放されることと、すべてを捨てて、欲望から解放されることと。
最近では「戦後体制からの脱却」「美しい日本」なんて言葉を聞くたび、「解脱」に似てるなあと思います。